![]() 第24回 対話と恊働の市民参加の「まち育て」を提唱する
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人が変わればまちも変わる。自分たちが主人公になって、まちを育んでいこう
1940年大阪生まれ。北海道大学工学部建築工学科卒業、京都大学大学院修了。工学博士。京都大学助手、熊本大学教授などを経て1997年より千葉大学工学部都市環境システム学科教授。NPO千葉まちづくりサポートセンター代表。コーポラティブ住宅や住民主体のまちづくりの伝道師として全国を飛び回っている。「コミュニティを生成するハウジングに関する一連の研究」で1990年日本建築学会賞受賞。「もやい住宅・Mポート」で1995年日本建築学会作品選奨受賞。主著に『こんな家に住みたいナ』『これからの集合住宅づくり』『集まって住むことは楽しいナ…住宅でまちをつくる』『何をめざして生きるんや−人が変わればまちが変わる』『「まち育て」を育む−対話と協働のデザイン』などがある。
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コーポラティブとは「もやい」だ!
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行政と市民の協働によるまちづくりが、全国津々浦々で活発に行われている。ややもすると、行政が推進する都市計画やハコものの公共事業までも「まちづくり」と称されているケースもあり、まちづくりという言葉が制度的な用語になって、かつて持っていた輝きを失ってしまったようにも思える。いま必要なのは、「まち育て」だ。親があれこれ干渉してもこどもが自分の意思で生きる道を選び育っていくように、まちもそこに住まう人たちも、お互いが関わり合い行動することで変わって行かなくては、と提唱している人がいる。千葉大学工学部の延藤先生だ。コーポラティブ住宅の企画・設計にはじまり、都市計画のマスタープランや公共施設設計の市民参加のコーディネイト、住民主体のまち育ての支援者として全国を駆けめぐっている。 ──先生の大学時代といえば、高度成長真っ只中ですよね。コーポラティブ住宅なんて言葉も知られてないし、とにかく住むところがあればって時代だった。 ぼくは大阪から北大に行ったんですよ。カッコよく言えば自然的風土、精神的風土を求めて。卒業は1964年。その前年に新幹線が走り、64年には東京オリンピックが開かれ、クラスメートは全員大手ゼネコン、大手設計事務所に就職していった。建築のテーマもいかに背の高いもの、大きいもの、強いもの、美しいものをつくるか。そんななかでぼくだけが「なんで日本の庶民は貧しいアパートに住んでるんやろ」とつぶやいてたんです。「お前のは建築学科やない。社会学部や」と言われて、一人だけはぐれもんだった。授業も先生がしゃべるのは、技術的なエンジニアリングの話ばかり。興味がわかず窓の外ばかり見ていました。1962年5月20日にカッコウは札幌にやってきたのに、翌年は5月22日だった。その差は何か?とか、そんなことをボーッと考えてた。 ──それから京大へ。 北大時代に、図書室で西山卯三先生の書かれた一冊の本に出会った。生活者の視点がこもっていて、ぼくのやりたいのはこれや、と京大の大学院に行ったんです。そこで院生・助手として過ごしたのが60年代後半から70年代前半。ちょうど74年からコーポラティブ住宅のムーブメントが起きる。それまでの根なし草のような住宅の大量生産・大量供給ではなく、地域に根ざしたコミュニティをつくろう、家は自分の生き方の表現だから、自由設計でなくては、と建築側と住民の気持ちがつながってスタートするんです。あちこちの事例を支援してたんですが、京都でもやろうということで始めたのが宇治市木幡の「あじろぎ横丁」であり、京都市洛西ニュータウンの一角にある「ユーコート」でした。 ──コーポラティブ住宅というのは住み手が集って専門家の助けを借りながら、共同でやる家づくりですね。 そもそもどんな仕掛けでやるのかの仕組みづくりから、どんな家をめざすのかというコンセプトづくり、そういった一連の企画・設計の場に身を置いていたわけですが、コーポラティブというのは横文字でどうもぴんとこない感じがある。ユーコートの竣工した1985年に熊本大学に赴任することになったのですが、そこで出会ったのが「もやい」という言葉です。 ──もやい、というと船と船をつなぐ「もやい綱」とか「もやい結び」のもやい? 北九州のある地域で「ここの魅力はなんですか?」と住民に聞いたら「台風のときに屋根が飛ぶと近所の人が『もやい』で直してくれます。こどもが行方不明になると近所『もやい』でみんなで探しに行きます。こどもがリンゴを取りあっていると母親が『おもやい』で食べなさいと言います」と話してくれたんです。そこで初めて、「もやい」、「おもやい」という言葉を聞いた。九州では日常的に、コーポラティブとか、シェアリング、コラボレイティブ、つまり助けあう、支えあうという意味で「もやい」と使っているんですね。かつて貧しい時代に「もやい」というふるまいがあって、豊かになってその言葉がなくなると、心までなくなってしまうものですが、九州では言葉が生きていた。そこで「もやい住宅の会」を立ち上げ、「もやいでまちをつくりませんか」と呼びかけたんです。大都市でコーポラティブ住宅にする場合は、住宅事情が厳しいからってことも多いのですが、地方都市なら土地はたくさんある。それでも人が集まったのは、豊かな社会にもかかわらず、自然を壊し、人間関係もまわりと切れていることが不満だったからなんです。もう一度、もやいの精神を取り戻そうという試みに共鳴してくれたんですね。不特定多数の人が16世帯集まって、3年半で家が建った。それが「もやい住宅Mポート」でした。
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強い専門家 VS. 弱い専門家
コーポラティブとはもやいの家づくりだ。生き方のデザインなのだ。こうして延藤先生は、住民参加の集合住宅づくり、あるいは住民主体のまち育て、行政と住民の協働のコーディネーターとして、人と人をつなぐ仕事に力を注ぐことになる。 ──不特定多数の人が集まっての家づくりやまちづくりって、めちゃくちゃ時間とエネルギーがかかりそうです。 いや、ひとたび住民がその気になったらめちゃくちゃ楽しい。「その気づくり」が専門家の仕事なんです。 ──その気にさせるコツは? テーマは何であれ、「私たちが主人公になれるんや!」と思う状況にすること。よそのおっちゃんがやれるんなら私らにもやれる! やろう! とその気にさえなれば、住民自身がイニシアティブをとって運営していきます。コーポラティブ住宅の進め方には3つの柱があって、第一段階は住み仲間集め。2つ目は何をめざすのか、住まうことの夢を描く気持ちづくりの段階。3つ目が、夢は実現できる!とそれをカタチにすること。最初の2つは住民がやらなくちゃいけないんです。専門家は、自分たちが主人公になれるように、ゆるやかにプログラムをサポートして、気持ちがひとつになったら、それをカタチにするだけ。 ──参加する人たちに、素地があるからって気もしますが。 よく「たまたまその地域の住民がよかったからでしょ」、って言われるですがそれはちがう。すべての地域、すべての人たちが参加のデザインにかかわる条件をそなえています。失敗するのは、行政と専門家と市民とが、何をめざすのか、コンセプトの共有ができないときです。 ──強い専門家は抑止するけど、むしろ参加者の気持ちを引き出していかなきゃならない。 たとえばまちづくりや公共施設の設計ワークショップで寸劇を取り入れる。初めてのワークショップで寸劇なんて押しつけがましいかなぁ、そうや、なりきりゲームで行こう!と、車椅子のおじいさん、小学生、施設の職員、縁側のネコとか役割を決めて、ナレーターの進行に沿って参加者にアドリブで寸劇を演じてもらうんです。楽しければいいんじゃなくて、こういう場で出てくるホンネが、計画案にまとめていくさいに重要な手がかりを与えてくれるわけ。 ──ワークショップに寸劇を取り入れるほかにも、絵本や紙芝居、スライドによる幻燈会を活用なさってますよね。ノウハウはどこに? いやいや、大事なことは全部住民に教わったんです。ぼくも最初は、「イギリスのコーポラティブ住宅は19世紀のイギリスの産業革命が華やかなりしころに…」なんて歴史的経緯を話したり「コーポラティブ住宅には5つの特性があります。実費主義で、自由設計で…」と箇条書き的にしゃべった。でも、それではだれも聞いてくれない。あるとき、絵本に関心をもって読みあさっていたころ、ぼくがこんなにおもしろいなら、みんなにもおもしろいかも、とスライドでプレゼンテーションしてみたんです。絵本はビジュアルにも美しいし、主人公があるできごとを乗り越えるとまた新しい事態がおきて…と、自分たちも主人公になった気持ちで、その物語を生きることができる。夢を共有しやすいことがわかった。「私も『プラムおじさん』になれる!」ってね。 間取りが自由で共有スペースがあって…と特徴を述べられても暮らしのイメージはわきませんが、こんなふうにこどもを育てられる、老後の不安もこんな人間関係があったらまわりから支えられると、暮らしを取り巻く不安や希望という気持ちの部分からアプローチしていくわけです。 |
「まちの縁側」をつないでいこう
つまり、延藤先生は花咲か爺さんならぬ、まち育て爺さん(失礼!)として、まち育てのタネを全国にまいている。名うてのアジテーターなのだ。 ──こうやって住民をのせながら、対話と参加と協働のまち育てのタネをまいている。 これほど地球環境から身近な環境まで悪くなり、周囲の自然環境も破壊されて…という状況のなかで、お年寄りもこどもたちも地域でうめき声をあげているのが現代。技術や経済や法律や制度にがんじがらめになって、それが一人歩きして、そのあとを人がくっついていく。これを変えていかなくちゃならないわけですが、全体のシステムを変えることをめざすのもむろん大切だけど、そこに行く前に、まずこの社会をつくっている一人ひとり、つながりによって世界をつくっている一人の私が変わらなきゃ。私から変わることで、すこやかな生き方、よりよい生き方がはじまる、と思うんですね。 ──その変わろうという人たちが主役になってすすめるのが「まち育て」。 親がこどもを育むように、地域も住まう人が応答して行動しながら、あるときは対立をエネルギーにしていきながら、育っていく。そのプロセスの中で「そやそや、こっちを向いて生きていきたいんや」、と生きる方向感を一人ひとりが獲得していく。人の意識の変容によって地域が変わっていく、それが「まち育て」。親がああしろこうしろ言うてもこどもは自分の意志で生きる。その生き方は個性によって一人ひとりちがうでしょう? 金太郎飴のような地域おこしではなく、一人ひとりの暮らしから出発するのが「まち育て」なんです。 ──変わるための秘訣はありますか。 これまでは住宅の構造も、人の意識も閉じる方向に向かっていた。閉じることによって自分も地域もまずしくさせていた。閉じるのではなく開く。まわりの人間や、自然や、まわりの小さないのちにふれる、開いた住まい方を取り戻すことだと思います。そのためにいま力を入れているのが「まちの縁側」づくり。縁側というのは、部屋と部屋をつないだり、家の内と外を切れ目なくつなぐ場所であり、人と人が出会っておしゃべりをする場所。月がのぼるのを見上げて、手前にススキが揺れている。遠景と近景が同時にあって、歴史の今と未来を見通すイメージもある。人の暮らし方とモノとのつきあい方のメタファーでもあるんですが、そんな縁側を、もういちど復権させようと。 たとえば、自分の家の一部を地域に開放して、こどもたちの紙芝居や絵本の読み聞かせコーナーにしてもいいし、空き店舗だって、高齢者の会食事業をする場所だったり、地域のお年寄りが集まって古い着物をリメイクする活動の場所にできる。そうすると空き店舗が地域の人と人が出会うコミュニケーションの場所、地域の宝物になる。それが「まちの縁側」。こういう事例が全国からたくさん集まれば「縁側サミット」にだって発展する。行政が予算をつくってやらないと始まらないんじゃなくて、地域の住民が自分たちの私的空間を開きながら、小規模なホットプレイス──これは心がホッとするあたたかい場所って意味ですが──これを地域に広げていく。そんな開かれたやわらかい未来を育んでいきたいと思い描いています。
(text:TAKAGI Sachiko)
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